梅窓院の中興の祖ともいえる中島真孝上人の後を継いだのが、その長男の真哉上人だった。
 真哉上人は大正十一年十月、高崎の安國寺で生まれた。姉である君子さんと二つ違いで、後継ぎとなる男の子だった。
 高崎の安國寺は現在、大本山清浄華院第八十世法主大田秀三台下がその法灯を継がれたが、梅窓院に入る前の真孝上人から受け継ぐ形だった。

 当時、安國寺の本堂の裏に住んでいて、毎日のように安國寺のお手伝いをしていた蟹和カツさんは、真哉上人の思い出をこう語る。
 「とてもおとなしい子でした。お姉さんの君子さんは三歳下でしたけど、とても活発でしっかりしていて、よく遊びました。真哉さんは五歳下でしたし、男の子でしたから、一緒に遊ぶというよりは面倒を見た、という感じです。」
 今は嫁ぎ先の長寿院で家庭菜園を楽しみにしているカツさんだが、中島家が高崎から梅窓院に引越してからも、よく遊びに来ていたという。
 そのカツさんに中島家の歴代住職の印象を聞いてみた。
 真孝上人が養子に入った倉常寺の中島霊真上人は、
 「面白い方で、冗談もよく言われました。料理もお上手でしたし、お花やお茶もたしなまれた先生でした。」
 中島真孝上人の印象は、
 「いつも大きな声で話されて、どこにいるかすぐわかりました(笑)。身の回りをいつもキチンとされていたのを覚えています。」
 真哉上人は前述の通りで、現住職の真成上人は、
 「昨年の春、わざわざお寺に立ち寄って下さり、初めてお顔を拝見しました。真孝先生そっくりで驚きました。」
 さて、真哉上人が十歳になった昭和七年、父真孝上人が梅窓院の住職となった。
 梅窓院での真孝上人の足跡はすでにこの連載で述べたが、その体の大きさも手伝ってか、その印象は強く、いまでも古くからの檀家さんの記憶に残っている。
 そうした真孝上人の後を継いだ真哉上人は海軍時代に広島で被爆し、病弱の身の上に、豪放磊落な先代の後と、やりにくかったことは確かなようである。

 そんな真哉上人は父であり、先代住職だった真孝上人が遷化した四十九年に第二十四世として梅窓院の法灯を継ぎ住職になったが、それ以前の四十五年前後に作った一つの会がある。真哉上人の思いのこもった会である。
 その名を梅真会という。
 梅真会の梅は梅窓院から、そして真は真哉からとった梅窓院の新住職を中心にした梅窓院の寮にいた僧侶の集まりである。
 もともと梅窓院の寮は増上寺にあった学寮、慈忍室の流れを汲み、明治六年に作られている。その寮の若いお坊さんたちを、真哉上人がまとめる形で会を発足させたのだ。
 手許にある梅真会の最新名簿をめくってみると、三十一人の名前が並んでいる。その名簿に並ぶお坊さんの出身のお寺は、北は北海道から南は九州と全国に広がっている。
 梅窓院に集ったお坊さんたちの多くは、大正大学へ通うため上京、梅窓院に寝泊りをし、お寺のお手伝いをする。また、修行を兼ねての研修のケースもある。長い人だと十年近く、短くても一、二年はお世話になっているようだ。
 この梅真会の会員でもあり、現在は梅窓院の副住職の藁谷上人はこう説明してくれた。
 「真哉新住職を囲む形で発足し、多くのお坊さんが会員になりました。穏やかな人柄の面倒見のいい住職でした。楽しむ時は楽しむ、やるべき時はやろうが口癖でした。」
 空気エンマとあだ名された真孝上人の後を、真哉上人はこうした自分なりのスタイルで継いでいったのである。

(ルポライター 真山 剛) 2003.1.1