昭和元年の十二月、アメリカでの留学を終え、中島真孝師が日本に帰って来た。前号で紹介した明治の名僧、渡邊海旭上人に師事した中島真孝師はアメリカで学んだ経験を生かすべく、翌二年の四月から芝学園に復職、再び教壇に立った。
 芝学園は浄土宗の僧侶養成機関として発足した中高一貫教育の学校で、真孝師が入学した当時は、浄土宗大教区宗学教という名前だった。その後、明治三十九年に芝学園となり、真孝師は新生芝学園の二回生として卒業した。留学から帰った時、師渡邊海旭上人が芝学園の校長に就任していたことも復職の大きな理由であった。

真孝師と芝学園

 さて、ここで真孝師を偲んで長男中島真哉師が発刊した『麦村翁の思い出』から、真孝師の随筆の一節を引用し、芝学園に対する篤い想いを垣間見てみよう。
 芝学園と私―芝学園側面史―と題された冒頭である。
 「芝学園卒業生八千余名のうち、私ほど母校との関係が長く、かつ深かった者はあるまいとあえて自負し、また母校からもっとも恩恵を受けた一人として、母校に対してそれだけ深い愛着を持ち、また厚い感謝の念をもっているのであります。それがそのまま芝学園と私との関係を書いていきますと、それがそのまま芝学園の側面史ともなりますので、皆様の御許しを得てこの稿を書かせていただきたいと思います。 以下略」
 これを読めば真孝師に芝学園への想いがどれほどものかが、読者に伝わるに違いない。芝学園の復職と同時に大正大学の教授職にも就き、その後一時芝学園を退職し、大正大学に専念するも、昭和十七年、太平洋戦争の真っ只中に芝中学校の校長に就任する。以来、東京都の私学振興協議会や日本私学団体総連合会での要職などを歴任し、昭和二十五年には芝学園の初代理事長に就任と、学校教育にその情熱を注ぎ込んでいる。

梅窓院の住職に

 こうした教育一筋に進み始めた昭和七年六月、真孝師に思わぬ話しが舞い込んで来た。梅窓院の住職就任である。当時の梅窓院は住職がいない状況で、浄土宗の特命により、中島真孝師がその任にあたることとなったのである。
 埼玉の倉常寺には師の霊真師が住職としているので、倉常寺の心配はいらない。また、芝学園と大正大学という浄土宗と関係の深い学校での実績もある。そして何より、将来性を鑑みて若き真孝師に白羽の矢が立ったのである。
 しかし、梅窓院の住職となったその年の十一月には師父である霊真師が遷化(せんげ・僧侶が亡くなること)し、その任が重くなった。しかも終戦の昭和二十年五月には、梅窓院、芝中学が灰となり、重荷ばかりの戦後を迎えることとなった。そうした苦難を乗り越えた真孝師の渾名(あだな)は「空気エンマ」、ワンマンで体格が良かったからだという。しかしこの真孝師がいなければ、現在の梅窓院はなく、まさにエンマという名の中興の祖といえる。
 戦後間もなくから真孝師は前述したように学校関係に要職をいくつもこなしていく。と同時に浄土宗でも、昭和二十九年に大本山増上寺での御忌導師を務めたり、昭和三十六年にはかつての留学経験もありハワイ浄土宗教団の総長に就任している。こうして寺、学校、宗と三つのフィールドで活躍した中島真孝師だが、次回では師が発行した寺報、『長青』を取り上げよう。

(真山剛・ルポライター)
2002.3.1