泰平観音

 江戸時代には、各地に三十三観音霊場がつくられていきました。
観音霊場をめぐる巡礼は、三十三のすがたかたちに身をかえて人々を救うという「観音経」の説くところからつくられたものでした。
今日ほど、気軽に旅に出ることがかなわなかった時代、比較的近隣の札所をめぐる巡礼は庶民にとって大いに魅力的であったと思われます。
浅草寺を一番として目黒不動瀧泉寺(りゅうせんじ)を満願とする江戸三十三観音は、いくども変遷をくりかえしながらも、昭和51年には「昭和新撰江戸三十三観音」としてととのえられました。
全国に名の知られた古刹もあれば、近所の住民に親しまれてきた小さな寺もあって往年の江戸の香りを感じられる巡礼です。
梅窓院は、第24番札所、山の手六阿弥陀の一つとして知られていますが、観音菩薩の信仰も広くあつめていました。

「青山の観音様」と称され、参拝の庶民は群れをなしたとあります。
縁結びと安産の御利益が評判になり、明治・大正・昭和の初めにかけては、毎月3日、17日、23日の縁日には青山通りに数十件軒の夜店がでてにぎわっていました。
伝えるところによれば、鑑真和上が唐より請来し、奈良東大寺大仏殿に奉安されていましたが、源氏の奥州討伐に念持仏として奉持され陣中護持の仏としてされました。
奥州の地がおさめられ、平和がやってきたということから、泰平観音という呼称が定着し、やがて、南部公のもとにひきとられました。
さらに、南部公から青山家に嫁入りした姫君の輿入れの際、青山家に伝えられ、梅窓院観音堂におまつりされるにいたったといわれています。
泰平観音には、観音信仰につきものの、数々の霊験が伝承されています。
病苦や貧困に悩む人々に、大慈大悲のお救いの手をのばされた観音さまのお助けが伝わっています。

※泰平観音さまがおまつりされている観音堂は葬儀場でもあります。
 葬儀の際は観音さまの御顔を拝見することは出来ません。