江戸時代の創建から始まったこの梅窓院史も戦後を迎えますが、何と言っても梅窓院に大きな変化をもたらせたのは東京オリンピックでした。
 昭和三十九年に開かれたこの世界の祭典は、東京を大きく変化させました。次々とオリンピック道路と呼ばれる幹線が整備される中、梅窓院前の青山通り、国道246号線も大幅に拡張され、梅窓院の境内地が国に買い上げられることになったのです。オリンピック開催の三年前、三十六年にはすでに工事に着工、当時山門前の、その一部が崩れている石垣がこの拡張のおかげで生まれ変わり、さらに、山門が三十七年に、会館の新玄関が三十九年に、客殿が四十一年に完成しました。境内地の買い上げが梅窓院を一変させることとなったのです。
 この大事業を成し遂げたのは先代の中島真哉住職で、その大きな体から空気エンマと渾名された先々代中島真孝師はこの時、ハワイの地に赴いていました。

 先々代についてはすでに三回にわたってその足跡をたどってきましたが、師の最後の公的な職務となったのが、このハワイ浄土宗教団の総長就任でした。
 現在ハワイには十五の浄土宗寺院がありますが、明治から始まった浄土宗の海外開教はこのハワイを嚆矢とし現在は北米、南米と広がっているのです。
 真孝師が赴いた三十六年、そして翌三十七年には五十周年、七十周年記念の大法要を迎える寺院があり、その法要にむけての総長就任でもありました。
 真孝師のハワイでの生活は四十年までの四年間で、二期の任期満了を七十六歳で迎えた真孝師は帰国に際し、二ヶ月の世界一周の旅に出られました。
 アメリカの大学に学び、また、教育者としての要職就任中にはヨーロッパでの会議にも参加していましたが、この晩年の、しかも大役を果たしての旅行はまた違う思いの二ヶ月だったに違いありません。

 明治二十二年に埼玉の農家に生まれ、七歳で倉常寺の中島霊真に師事、僧侶としての人生を歩まれ始めた真孝師は、英語の教師として浄土宗関係の学校で教鞭をふるい、昭和七年には梅窓院の住職に就任。その後、芝中の校長を始め、東京都をはじめ全国の教育関係の要職を歴任、かたや梅窓院では寺報の発行し、多くの檀家さんに印象深い説教をされ続けました。
 そして、戦前戦後の大変な時代を乗り越えた真孝師は、最後の花道ともいえる御忌唱導師を拝命されました。四十六年四月のことでした。
 その三年後の四十九年三月三十日、中島真孝師はその八十五年の人生を終え、浄土へと旅立たれたのです。
 真孝師、真哉師、現住職の真成師の三代を知る現 藁谷副住職は、晩年の真孝師をこう語ってくれました。
 「晩年の先々代はもう、自分の死を受け入れられていて、いつ亡くなってもよい、という心境のようでした。
 慌てず騒がず、念仏とともに悠々と余生を楽しまれていたように思えます。」
 また最初の出会いをこう振り返られる。
 「弟子入りをお願いしに梅窓院に来たのですが、突然、玄関に貼ってあったポスターを指差し、『きみ、このポスター変じゃないか?』って。挨拶も交わす前でしたし驚きましたが、何につけても思われたことを率直に言われる方で、我々若い者にも高いところからではなく、同じ目線で話しをしてくれました。」
 いまなお、その面影を慕う檀家さんもいる中島真孝師は、実直に豪快に八十五年の人生を楽しまれ、最後の旅に出られたに違いありません。

(ルポライター 真山 剛)
2002.9.1