梅窓院の再生を担った中島真孝前々住職から、その足場をより強固なものにした真哉前住職へ。そして本堂復興という永年の夢を現在形にしている真成現住職へ。この「青山」梅窓院史も今回で最終回となる。

 さて、梅真会という形で自分なりのスタイルを作った真哉前住職だが、不本意ながら、いつも大きな爆弾を体に抱えていたのである。
 それは戦争召集され、被爆した広島で患った心臓の病である。体格の良かった父真孝上人の血を引く真哉前住職も決して貧弱ではなく、立派な体躯だった。だが、原爆により壊滅した町の復興作業に取りかかるには、あまりに早すぎたのだ。被爆地で作業する兵隊の体を放射腺が容赦なく蝕ばんだ。
 今回のこのシリ―ズの取材を通じても、檀家さんの印象に残っているのは空気エンマとあだ名された真孝上人であり、真哉前住職の名前は出てこない。出てきても「病弱な」という言葉が必ずかぶさった。ましてや檀信徒が多く、梅真会に所属する多くのお坊さんが法事や行事を手伝ってくれているので、直接住職と顔を合わせることも多くはない。印象が薄いのも致し方ないことである。
 真孝上人がハワイに渡ってからは副住職の肩書きながら、すべてを取りしきり、山門改修、祖師堂建立など、梅窓院の足固めに真哉前住職はその持てるすべてを注ぎ込んだ。僧侶を武将にたとえるのも何だが、いわば家康の陰に隠れながら江戸幕府三百年の足固めをした二代将軍秀忠のような存在だった。

 さて、その真哉前住職は長患いの末に心臓の病で遷化された。時に平成三年十一月のことだった。病弱な自分の経験を活かし、宗教と医療の理想的な協力施設、いまでいうホスピスを作りたいという夢半ばにしての遷化だった。
 そして中島家が梅窓院に入って三代目にあたる真成住職がその跡を継ぐことになる。
 祖父、そして父から梅窓院を継いだ真成住職は昭和三十二年六月に埼玉の倉常寺で生まれた。そして寄り道することなく梅窓院の第二十五世として現在に至っている。
 その真成住職の最大の望みは本堂復興である。昭和二十年に戦火で灰塵に帰した後は、講堂を本堂として使ってきていた。この読者の記憶にも残る九輪をシンボルとした講堂は、大正時代の山田住職時代に建立されたものである。当時としてもモダンだったこの講堂はその後も昭和、平成と梅窓院のシンボルであった。
 こうした印象深い建物であったこともあったのだろう、真孝上人も真哉前住職もお寺の規模にしては少々こじんまりした講堂ながら、本堂としてきたのである。

 こうして二代に渡って残されてきた講堂を取り壊し、新しく本堂を復興させる。この真成住職の計画には復興しなくてはならない理由がある。
 講堂の老朽化である。
 大正時代の建物は雨漏りをはじめ、電気施設など目に見えない部分が痛み過ぎ、耐震性にも問題が生まれてきたのである。また高齢化にともなう対応も今の建物ではできないのである。
 そしてこの本堂再興の大前提として檀信徒に経済的な負担をかけないということだった。と同時に都心のお寺ということを十分考慮しての本堂復興となったのである。
 その詳細は本稿の趣旨ではないが、真成住職の決断が後世の梅窓院に語り継がれることは間違いない。
 新しい梅窓院がどういうお寺になっていくのか?
 どういう形になるにせよ、青山家から始まった歴史と伝統の延長線の梅窓院であることに変わりはない。

(ルポライター 真山 剛) 2003.3.1