梅窓院を建立し、青山という地名にもなった青山家。徳川の歴代将軍に仕え、幕府を支えた青山家は、 江戸時代を代表する大名です。その青山家は、本家が現兵庫県の篠山で、そして分家は岐阜県の郡上で、それぞれ明治維新を迎えます。梅窓院を建立した青山幸成は、家康、秀忠に仕えた青山忠成の四男で、郡上青山家の流れになります。
 さて、徳川の三百年近い安定幕府の担い手といえば、大名です。青山家は幕府のお目付役的な譜代大名で、交通の要衝、問題のおきた藩などを統治することとなり、転封、引っ越しが多くありました。郡上八幡で明治維新を迎えた青山家も、それまでにあちらこちらに移りました。
 当初は江戸近くで、現在の千葉県や群馬県を基盤にしていましたが、それから現静岡県の遠江掛川、現兵庫県の摂津尼崎、現長野県の信濃飯山、現京都府の丹後宮津と移って、現岐阜県の美濃郡上に落ち着いたのでした。今回はこの郡上八幡に目を向けてみましょう。

踊りと水の郷、郡上八幡

 郡上八幡は現在の岐阜県郡上郡にあり、昔日の面影を漂わせる情緒あふれる城下町です。町の真ん中には水量豊かな長良川の支流が流れ、散策コースには鯉の泳ぐ水路が、そして宗祇水と呼ばれる観光名所の水汲み場があります。そして何より有名なのが、お盆に徹夜で踊る盆踊り、郡上おどりです。この時は全国から観光客が集まって、 それこそ道にあふれんばかりの人々が熱狂的に踊りあかします。
 この風光明媚な郡上に青山家が転封してきたのには大きな理由があります。前の藩主である金森氏が一揆により改易、つまり領地没収となったからです。

金森氏改易で青山家郡上へ

 金森氏が藩主当時の郡上で起きた一揆は宝暦騒動と呼ばれるもので、通称、郡上一揆といいます。この郡上一揆は映画化され、昨年から今年にかけて上映されました。水田の検地方法に反対する百姓が「百姓皆々一味同心」という連判状を作り、江戸での直訴におよびました。その結果、百姓の願いが叶い、藩主の金森氏は改易されました。これは当時の一揆の中でも特筆すべき成功例でした。
 この金森氏の改易を受けて、青山家が郡上に入ったのです。宝暦九年のことで、一七五八年でした。時の青山家当主、青山幸道は、郡上入部にあたって出迎えの者に三百文づつ与えましたが、それに感激し披露した地踊りの姿が「三百」といわれ今も残っています。

幕末と郡上、凌霜隊

 さて、幕末の郡上で忘れてはならないのが、凌霜隊です。幕府から朝廷にと歴史が移る中で、郡上藩としては朝廷側につく中、江戸藩邸では幕府が勝つことも想定し、凌霜隊を組織し、幕府応援のため会津に向かわせたのです。この戦は朝廷側の勝利となり、凌霜隊は投獄されます。後に釈放されますが、この苦肉の策ともいえる凌霜隊の記念碑は城の山腹に今も残っています。
 ところで、郡上青山家の藩主にはみんな「幸」という字が入っています。「よし」と読むのですが、一二代将軍徳川家慶が、「いえよし」と読む事から、同じ「よし」の読み方を避け、「ゆき」と読むようになりました。ですから、郡上青山家の初代の幸成は「よしなり」で、郡上県最初の知事となった幸宣は「ゆきのぶ」です。
 幕末を郡上で迎えた青山家の資料や遺品は今も郡上八幡城に残されていますし、その天守閣に上って見渡す郡上の町並は一見の価値があります。郡上踊りの見物に行かれる時は、ぜひ上ってみてはいかがでしょう。

(真山剛・ルポライター) 2001.6.1