明治の仏教界は神仏分離令、そして廃仏毀釈という、仏教界にとっては、天地を覆すような出来事で始まりました。さらに肉食や妻帯が僧侶に許され、宗派を問わず公に妻をめとり、食べ物にも気を遣わなくてもよくなったのです。
 許されたからといって、そうするか否かは別物だとは思いますが、時代の流れの中で仏教界全体が動いていったに違いありません。そうした中、浄土宗が社会に残した大きな足跡が教育機関、学校です。浄土宗は僧侶養成所として全国に八つの学校を創設していました。
 北から、仙台、長野、東京、名古屋、京都、大阪、山口、そして福岡です。八つの支校は仙台、長野、山口が合併され、現在は五つの学校が残っています。
 その五つは、芝学園、東海学園、東山高校、上宮高校、鎮西高校です。皆さんはいくつ知っていらっしゃるでしょうか。進学校として、あるいは甲子園で名前を聞いた高校など、知っていらっしゃる学校が意外とあるかもしれませんね。

中島真孝上人と芝学園

  さて、この学校の中で梅窓院の歴史と関わってくるのが、芝学園です。東京タワーのすぐ脇に聳える学舎は、三年前に建て直された九階建で、中学一年生から高校三年生までの一環教育となっています。この学校の校長を務められたのが、梅窓院二十三世中島真孝住職です。就任は昭和十七年でした。
 中島真孝上人は明治二十二年に現在の埼玉県一ノ割に生まれました。農家の三男で幼名を荒木孝三といいました。孝三は七歳の時、倉常寺にあずけられ、得度しました。得度とは浄土宗での出家で、その寺のお坊さんになるということです。
 孝三の出家にあたり師僧となったのが、時の倉常寺住職中島霊真上人でした。師の元で孝三の修行の日々が過ぎ、明治三十六年には芝学園に入学、そして卒業と同時に僧籍に入り、中島真孝の僧名となったのです。
 その後、東京高等師範学校、今の国立筑波大学に入学、翌年の明治四十三年には、加行という浄土宗の住職資格をとる修行を終えています。
 大学で学んだ英語で旧制中学の教師となり、青森、茨城で教鞭をとりました。そして母校芝学園に奉職することになったのです。

明治の名僧、渡辺海旭上人

 当時の芝学園の校長は恩師である渡辺海旭先生でした。渡辺先生は浄土宗のみならず仏教界を代表する僧侶で、明治三十三年には第一回浄土宗海外留学生としてドイツにわたり、比較宗教学を学んでいます。
 十一年に及ぶ留学生活後、日本に戻った先生は、大学の教授を歴任しながら、社会事業、教育事業で活躍されました。生涯独身を通した明治の名僧の一人でした。
 この渡辺先生に師事した真孝上人は、その影響もあったのか、大正九年には海の向こう、アメリカのワシントン大学、そしてコロンビア大学を修了しています。ちなみに専攻したのは学校教育における宗教教育のあり方で、帰国後の自分のなすべきことを既に踏まえていたのかもしれません。
 お檀家さんの中には真孝先生を知っていらっしゃる方も多いかと思いますが、活発で学問好きのお坊さんだったようです。さて、その後昭和に入ってから梅窓院の住職、そして芝学園の校長先生となるわけです。次回は真孝上人が梅窓院に入ったいきさつに触れてみましょう。

(真山剛・ルポライター) 2002.1.1