幕末を郡上で迎えた青山家ですが、江戸二百六十年の幕藩体制は明治を迎え、大名は没落を始めます。日本の歴史を振り返ってもこの明治維新は大きな転換点の一つで、それこそ手の平を返すように世の中が変わりました。そうした大きな変化の一つが神仏分離令です。
 明治元年に発令された政策で、神道国家を目指すため、神社から仏教色を払拭しなさいというものでした。仏教は六世紀半ばに日本に入ってきましたが、奈良時代から神仏習合といって神道と仏教がうまく融合してきていたのです。そこに突然、神さまと仏さまをちゃんと区別しなさい、という命令が出たのです。

神仏分離と廃仏毀釈

 この神仏分離令と切り離せないのが廃仏毀釈です。廃仏毀釈とは仏を廃し、釈尊、つまり仏教をそしる、けなすという意味です。ただ、この運動は神仏分離令が発令されてから始まったものではなく、以前から各地で起きていました。それが発令以後は全国規模となり、各地で仏像が壊され、寺院が焼かれ、僧侶が普通の人に戻されました。その時に失った仏像や仏教絵画、建築物は想像もつかない数だったようです。その激しさに明治政府は廃仏否定を掲げ、弾圧は続きました。
 ここで忘れてはいけないのは、庶民からの迫害を、なぜ寺院が受けたかということです。それはお寺が権力と結びつき、本来の宗教的立場から逸脱していたからです。日本のお寺の歴史をひもとくと、確かに伝来当時から権力者に庇護されてきた歴史があります。特別扱いを受けて来た寺院は何時の世でも、一般庶民からみると優遇され、権力者の隠れ蓑に見えていたのかもしれません。
 こうした寺院に対して庶民が怒りをあらわにし、廃仏毀釈運動となったのです。お釈迦さまは縁起ということを説かれましたが、因果応報、寺院にそうされるだけの原因があった、と素直に反省すべきなのかもしれません。

学寮梅窓院の始まり

 ところで梅窓院はどうだったのでしょうか?
 幸なことに梅窓院は被害を受けずに済みました。ですが、隣にあった修験道の総網寺院は廃寺の憂き目にあっています。 こうした中、大本山増上寺も寺領が激減し、明治十年、増上寺の学寮『慈忍室』がこの梅窓院に移って来ました。学寮梅窓院の始まりです。
 明治になってからの変化はまだあります。それまで大名屋敷だけが並ぶ閑散としていた青山が、大名の没落とともに、商店や人家が立ち並ぶ町に変化しました。もともと五街道に次ぐ幹線道路、大山街道を門前にしていた梅窓院ですから、時代の変化と共に大きく様変わりしました。

 左のイラストは明治三十六年に出された『新撰東京名所絵図』ですが、正面左手に梅窓院の山門が見えています。通りには、人力車が行き交い、露天商、鮨屋などの商店が立ち並び、大名屋敷とは違う賑わいが描れています。と同時に、道路拡張により門前地を失うことにもなりました。寺領一万三千坪が六千坪に減ってしまったのです。明治維新からの変化は、確実に梅窓院にも襲ってきたのです。

(真山 剛・ルポライター) 2001.9.1