梅窓院の歴史を訪ねるこのシリーズ、第三回は「青山」という地名の由来についてです。
 国道246号線沿にある梅窓院ですが、この辺りを青山と呼ぶようになったのなぜでしょう。 青山家が三河からこの地に屋敷を構え、一寺を建立したのがこの梅窓院です。 以来、青山家の屋敷があることから青山と呼ばれました。
 あれれ、それだけ?それが名前の由来?
 いいえ。今回はさらにそのルーツに迫ります。 なぜ「青山家は青山と名乗ったか」という歴史を繙いてみましょう。

 青山家のルーツは近江の国です。平安時代にその権勢をふるった藤原家の血筋です。 近江というと近江牛や近江商人を思い浮かべるでしょうか。
 近江は現在の滋賀県で、京都に隣接し、日本一の湖、琵琶湖を有する県です。 その近江の国の師重という人が青山と名乗る初代で、師重は藤原四家の一つ花山院家です。
 この師重が尹良親王に従い新田荘に下ったことから青山姓の歴史が始まります。 新田荘は今の群馬県で、「上州新田郡三日月村で生まれ……」 のナレーションで始まるかつての人気テレビ番組「木枯らし紋次郎」でこの新田の名前を聞いた方も 多いでしょう。
 当時の新田荘は相当広かったのですが、師重が移り住んだのは花山院の故領で、 今の吾妻郡中之条町です。中之条町は渋川と草津のほぼ中央、ロマンチック街道と呼ばれる国道一四五号と国道三五三号の交差しているところです。 町は吾妻川を望む高台にあります。青山は中之条中心部の隣に位置し、 師重はこの青山郷に住んだのです。

一年中緑の山が名前の由来

群馬は温泉で有名なところで、いくつもの温泉の看板が国道沿いに並んでいます。
 その道沿いの渋川寄りに下青山のバス停があり、そこから平坦な地が開け、青山となります。 下青山、青山の二つのバス停しかない広さですが、そのシンボルが青山です。
 標高七四七メートルのこの山には大変松が多く、四季を通じていつも青々としていたそうです。 それでこの辺りを青山と呼んだのです。この青山の地名から師重は青山姓を名乗ることになります。 ちなみに師重がこの青山に移ったのは南北朝時代の元中元年、一三八四年のことですから、 青山姓の歴史は六百年を超えることになります。
 やがて師重は三河に移り住み、そして青山家は徳川家の最古参の譜代となり、青山忠成の時、 家康の命に従い現在の地に居を移しました。そして関東入国の準備を整え、 その子忠俊が家光の守役に抜擢されたことは昨年のNHKの大河ドラマで御覧の通りです。
 さて、こうして青山姓のルーツを探っていくと、ひとつの山に辿り着くのです。一年を通して松の木で青々としていた山の名が人の名になり、その人の名が再び地名になったのです。
 群馬県吾妻郡中之条村青山は東京からは車でおよそ三時間。皆さんも機会があったらぜひ一度 立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

(真山剛・ルポライター) 2001.1.1