手元に、四隅が黄ばみ、古くなった紙の独特な匂いのするB5版二つ折りの寺報がある。
「昭和七年十月十日発行『長靑』第壱號」と旧字で書かれた記念すべき梅窓院の寺報第一号だ。
先々代の中島真孝先生が創刊したこの『長靑』は二号目からは『梅窓』と名前を変えながら、戦争による紙不足となった十八年七月まで、十二年間続いている。
一月、四月、七月、十月の年四回発行が十年間、そして十七年は年三回、最後の十八年は最終十月号のみとなったものの、全四十一号におよぶ発行は特筆に値するものだ。
前回、真孝先生の梅窓院入山、芝学園、大正大学での教鞭など、先々代の忙しさを伝えたが、そうした中での発行、しかも定期的な刊行がいかに大変だったかは、いうまでもない。
今のようにコンピュータや印刷技術が進歩していない当時の苦労は想像におよばない。
檀信徒への想い
さて、この第一号上段には「御挨拶」と題された一文が載っている。
「去る六月十八日に当院の住職を云い付かりましてから早くも四ケ月を経過して居ります。」
こう始まる挨拶文には、忙しい身となってお檀家さまに対して充分に親しみを持つ機会が得られないことを深く慙愧し、そのかわりにこの小さな通信をお手許に差し上げる旨が書かれている。
住職としての、あるいは僧侶としての想いや考えを、お檀家さんに伝えるという重大な役割をこの寺報に託している真孝先生の気持ちが充分に伝わる一文だ。
また、かなわなかったものの将来は月刊に致したいとの希望も書かれ、檀家に対する真摯な態度があらわれている。
さらに紙面を読み進むと、「安らかな生活」、「お十夜の話」といった原稿、二面の「お慈悲のたより」と行事のお知らせ、三面の檀信徒からの投稿、四面の「仏教とは何ぞや」と頁が続き、仏教の話を中心にした編集方針が明確に出ている。
執筆者は真孝先生を中心にし、朋友知己となる先生方の原稿、そして親戚の方と幅広い。決してこっているというデザインではないが、少しでも檀信徒の皆様に仏教を浄土宗をわかってもらいたいという意気込みがあふれる紙面だ。
さて、平成12年6月に現在の梅窓院通信である『青山』が創刊された時、編集部の「五十六年ぶりに発行する梅窓院の寺報なのです」という言葉が思い出された。紙や印刷は変わっても寺報という紙面に込める思いは昔も今も何のかわりもないものである。
梅窓院に集った人々
さて、このかつての寺報にはいろいろな方々の原稿が載っている。中でも面白いのは後半の号の紙面の最後を飾る熊谷忍敬先生の原稿だ。
熊谷先生は京都の仏教専門学校から大正大学に入り、梅窓院に住み込みでお手伝いをしていた。その熊谷先生は浅草のお寺に入り大野と名前を変えられ、今は京都にある浄土宗の大本山、百万遍知恩寺のご法主(住職のこと)になられている。
また、真孝先生の長男で、先代となられた真哉先生も原稿を寄せられている。
お二方が原稿をよく書かれるようになった頃はすでに戦争もその激しさを増していて、執筆するにも何かと気をつかうなど、大変な時期であったことが読み取れる。
印刷物というものは、後世に色々なことを伝えてくれる。真孝先生はそんなことも考えていたのであろうか?
(ルポライター 真山 剛) 2002.6.1