青山、良い響きですね。
東京にはいくつもの街の名前があります。銀座、新宿、浅草、成城……、数えたらきりがありません。そしてそのどれもが、それぞれの街ならではのイメージを持っています。皆さんも街の名前をきけば、その街並が思い浮かんでくるでしょう。
さて、では青山と言えば、どんなイメージでしょう。
この「青山」梅窓院史は皆さんの持っている青山のイメージをより膨らませる物語なのです。
地名の魅力
地名にはそれぞれ意味があって付けられたのは、皆さんもご存じでしょう。名前も同じです。その場所の地形や特徴、あるいはそこの特産品や商い品などが地名になることもあります。また伝説から命名されることも少なくないようです。
地名辞典のような本もでていますが、地名から色々なことがわかるのは楽しいものです。皆さんが今お住まいの地名がなぜ付いたのか、調べてみるのも面白そうですね。 住んでいる場所の昔にタイムトラベル、時間旅行する気分が味わえるかもしれません。
梅窓院の院号、山号って
皆さんのお寺、梅窓院のある青山。はたしてこの地名はどうやって付けられたのでしょう。それを調べるには、まず、お寺の歴史からひもといてみましょう。
梅窓院は正式な名前を長青山寶樹寺梅窓院といいます。お寺には山号、寺号、院号といって三つの種類の名前が組み合わさっていることが多いのです。
この梅窓院で説明すると、山号が長青山、寺号が寶樹寺、院号が梅窓院、という具合になります。そしてこの長青山寶樹寺梅窓院が建立されたのは寛永二十年、江戸時代の最初の頃で、西暦一六四三年のことです。
広い当時の武家屋敷
江戸幕府を開いた徳川家康の家臣だった老中青山幸成(よしなり)公が逝去した時、青山公の下屋敷に、その側室を大檀越(わかりやく言うと応援者つまりスポンサー)として、一万三千余坪という広さで建立されたのです。
広いですね。
現在の梅窓院の境内が約三千坪ですから、四倍以上の広さになります。しかもその広さが青山公の下屋敷の一部というのですから、一体当時の武家屋敷はどのくらいの広さだったのでしょう。
東都青山絵図を見てみるとわかりますが、まあ、広いこと広いこと、今では想像もつかない広大な土地を所有していたのですね。
「えっ、少しわけてもらいたい」ですって。本当ですね。
でも、それだけ青山公が幕府のために尽くしたという証で、たとえあなたがタイムトラベルした所で、簡単には分けてもらえないかもしれません。
さて、寺の名前は逝去された青山幸成公の戒名(正式には法号といいます)、梅窓院殿香譽浄薫大禅定門の院号の梅窓院から、そして幸成の側室の戒名、長青院殿天譽利白大姉から長青をとり、山号にしたのです。
それでは寺号の寶樹寺は一体どうした理由でつけられたのでしょうか。
それは次回に。
(真山剛・ルポライター) 2000.6.1