青山梅窓院史 五・廃仏毀釈と梅窓院
幕末を郡上で迎えた青山家ですが、江戸二百六十年の幕藩体制は明治を迎え、大名は没落を始めます。日本の歴史を振り返ってもこの明治維新は大きな転換点の一つで、それこそ手の平を返すように世の中が変わりました。そうした大きな変化の一つが神仏分離令です。
明治元年に発令された政策で、神道国家を目指すため、神社から仏教色を払拭しなさいというものでした。仏教は六世紀半ばに日本に入ってきましたが、奈良時代から神仏習合といって神道と仏教がうまく融合してきていたのです。そこに突然、神さまと仏さまをちゃんと区別しなさい、という命令が出たのです。
神仏分離と廃仏毀釈
この神仏分離令と切り離せないのが廃仏毀釈です。廃仏毀釈とは仏を廃し、釈尊、つまり仏教をそしる、けなすという意味です。ただ、この運動は神仏分離令が発令されてから始まったものではなく、以前から各地で起きていました。それが発令以後は全国規模となり、各地で仏像が壊され、寺院が焼かれ、僧侶が普通の人に戻されました。その時に失った仏像や仏教絵画、建築物は想像もつかない数だったようです。その激しさに明治政府は廃仏否定を掲げ、弾圧は続きました。
ここで忘れてはいけないのは、庶民からの迫害を、なぜ寺院が受けたかということです。それはお寺が権力と結びつき、本来の宗教的立場から逸脱していたからです。日本のお寺の歴史をひもとくと、確かに伝来当時から権力者に庇護されてきた歴史があります。特別扱いを受けて来た寺院は何時の世でも、一般庶民からみると優遇され、権力者の隠れ蓑に見えていたのかもしれません。
こうした寺院に対して庶民が怒りをあらわにし、廃仏毀釈運動となったのです。お釈迦さまは縁起ということを説かれましたが、因果応報、寺院にそうされるだけの原因があった、と素直に反省すべきなのかもしれません。